射水神社

     
 射水神社
 越中国一宮
 式内・名神大・国幣中・別表神社
 祭 神
 瓊瓊杵尊
 ににぎのみこと
 2017_07_03

社伝によれば、既に奈良時代には二上山を神体山として麓に鎮座していた 二上神の名で度々六国史などに登場する いずれも高瀬神社と同時に同序列で、共に越中国最高位の神社とされていた 養老元年(717)行基別当寺として、二上権現を祀る二上山・養老寺を建立した しかし、この説には疑問が多いと言う 天平13年(741)能登国越中国に併合された 天平18年(746)大伴家持国司として赴任し、万葉集に多くの歌が詠まれた 天平宝字元年(757)能登国越中国から再び分立した 越中国一宮だった気多大社が、能登国一宮となり、二宮だった当社が昇格した この後、気多神社国府の近くに気多大社から分祠され、一宮争いが起こる 平安時代末の一時期、国府が礪波郡に移されたため、高瀬神社が一宮を名乗る 南北朝時代中期に書かれた神道集では、越中一宮は立山権現(雄山神社)と記されている 承平年間や、天正年間にも兵火により社殿が焼失する 江戸時代に入り加賀藩の祈祷所となって復興した
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明治元年(1868)神仏分離令により二上山大権現は射水神社と改称した 養老寺は金光院と慈尊院の2坊が細々と法燈を継ぐ状況となった 明治8年(1875)高岡城本丸跡の現在地に遷座した 高岡町側は喜んだが、産土神を奪われる二上村民は抵抗した 明治10年(1877)二上山麓の旧社地に二上射水神社を分社 二上山内には射水神社摂末社が残され、古来から伝わる築山神事と獅子舞は、二上射水神社で催されることになった 明治33年(1900)高岡大火により社殿焼失 明治35年(1902)現社殿が再建 第2次世界大戦後、二上射水神社越中総社射水神社として独立の神社となり、高岡古城公園射水神社は、越中総鎮守射水神社と称している
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