大和国分寺

     
 大和国分寺
 勝満山 満法院
 浄土宗
 本 尊
 阿弥陀如来
 あみだにょらい
 十一面観音
 じゅういちめんかんのん
 観音菩薩
 かんのんぼさつ
 勢至菩薩
 せいしぼさつ
 2017_03_14

寺田一生録では天正年間まで遡るが、江戸時代に書かれた大和志でこの寺が大和国国分寺であると比定した 周辺で古瓦が出土し、古代寺院の礎石が残存することから、今後の調査が待たれる 聖武天皇が詔を発したのは天平13年(741)で、法華寺の前身・皇后宮を宮寺としたのは天平17年(745)で、法華寺の寺号は、天平19年(747)が初見である 天平13年(741)に東大寺の前身である金鐘寺に属していた阿弥陀堂が完成した(所在地未詳)と記されており、天平16年に法花寺の寺名が見えることから、法華寺の創建以前に国分尼寺が存在したという説がある 法花寺が大和国国分尼寺として建立されたのか、総国分尼寺に昇格して法華寺となったのかどうかは不明
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宝暦11年(1761)建立の本堂は明治の初め頃、小学校の前身・培擁社として使われていたが、平成15年(2003)に焼失した この時、平安時代の作とされる重要文化財の十一面観音立像は収蔵庫に安置されていて無事だった(非公開) 八木は、南北に走る中街道と東西の横大路が交わる交通の要衝で古くから栄えた 横大路の北側が十市氏の十市郡に、南側が越智氏の高市郡に属した 豪族支配の境界で争乱が絶えず、度々兵火に焼かれた 江戸時代に南側が高取藩領に、北側が郡山藩領から元禄時代には天領になると、吉野・高野詣や大和巡り・伊勢参りなど大勢の人々が全国から訪れるようになる
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