敦賀城・来迎寺

     
 北陸道 越前の国
 城 名 敦賀
 別 称 
 所 属 戦国時代・織田勢
 築城年 1583
 築城主 蜂屋頼隆
     
 来迎寺
 岡見山
 時宗
 本 尊
 阿弥陀如来
 あみだにょらい
     
 真願寺
 益田山
 浄土真宗 真宗大谷派
 本 尊
 阿弥陀如来
 あみだにょらい

天正3年(1575)織田信長が越前を平定 天正11年(1583)本能寺の変の後、羽柴秀吉の家臣・蜂屋頼隆が築城 天正17年(1589)九州平定中に病死した頼隆に代わって、大谷吉継が入り水城として改修 慶長5年(1600)秀吉の死後、家康打倒を訴えて立ち上がった石田三成を勝機なしと再三説得するが、ついに吉継は西軍に加担し敗北し自刃、所領は没収される 元和2年(1616)結城秀康により代官が派遣されていたが、一国一城令により廃城、小浜藩奉行所代官所が置かれた 寛永11年(1634)酒井忠勝小浜藩主となり、幕末まで続く 明治4年(1871)廃藩置県により県庁舎が置かれ、さらに警察署・裁判所・病院と変遷した 明治42年(1909)敦賀尋常高等小学校が移転、現在は敦賀西小学校になっている なお、分家(小浜藩支藩)である敦賀酒井氏(敦賀藩・鞠山藩とも)の敦賀陣屋は旧金ヶ崎城近くに建てられた
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来迎寺 嘉慶元年(1387)正法寺の国阿上人が気比神宮に参拝に訪れ、三日三晩修行を行い、御告げに従い草庵を設けた 正法寺(京都市東山区)の末寺として紫雲院来迎寺と号したのが始まり 山門は敦賀城の中門を移築した(唯一の建築遺構) 本堂内部の腰高障子は大谷吉継が戦の前に来迎寺に預けたものという(福井県指定文化財) 寺の西隣を来迎寺野といい、敦賀郡中の葬墓処・仕置場で敲(むちで打つ)の刑や斬罪が執行された 幕末の元治2年(1865)尊皇攘夷を掲げた水戸藩士・天狗党武田耕雲斎以下約350名が処刑された
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真願寺 文亀3年(1503)祐西が気比神社の西に開創、寛文年間(1661~1673)に敦賀城の乾門跡に移転した 寺周辺の幅1mほどの水路はかつての堀跡で、境内には城の礎石が残っている 門前に城跡碑があるはずなのだが、本堂・築地塀・山門など大修理中でどこかへ待避していたようだ
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訪問日 2016-08-28 遺 稿 移築門
入場料 無料 駐車場 無料 C2